なんだかいいかんじ♪

他人にうまく説明はできないけど「なんだかいいかんじ」を共有する為のなにかです。

手始めに

何から書こうか。
正直よくわからないし、何でも良いんだろうけど。
                                    
                                   
                                                          

 一つ、言えることは25年ちょっと生きてきてこの1,2年で変化を感じて今の自分なりの疑問が解けていくのを感じてる。
「人はすべからく事上に在って磨くべし」って王陽明の言葉があったと思うけど、やはりそう思う。
そう思うのは今まで自分に心の底から支持できると思える人がいなかったからなんだと思う。

 

かつての自分は、その対象を親に置きたい自分と、どうしても置きたくない自分に挟まれた自分が居た。何においてもそう。まさに天使と悪魔。
自分の行動・好奇心に言葉が欲しかったし、チャレンジするための動機付けの言葉が欲しかった。その過程や結果を人からフィードバックとしてもらうのが好きだったし、時折好奇心に空想を混ぜて夢として語り合うのが好きだった。

未だにこの感覚から微妙に外れてしまっている。
もどかしい、むずがゆい、イチゴの種が歯に挟まった気分。
「探し物は目と鼻の先」ってキーワードが色素の抜けたサイレント映画みたいに…
(自分の感覚ではキーワードの色は #ffec47 菜の花色である)

 

 

 じゃあこのズレはどこから?
一つのトリガーであろうことは両親の離婚かもしれない。これ自体はきっかけであって原因にはなり得ないだろうが。
自分の両親は自分は小学5年の頃に離婚していて、当時はよくわからないまま怒られている親父が全て悪いものと思い込み母親について行った。思えばこれが最良の選択であり最悪の事態を招いていたのかもしれない。

それからは何かと地獄の連続だった。
とにかく人に何かを話すことが好きだった。聞いた人が何を思ったかを共有してくれてそこからコレってコレじゃん!って新しい発想が生まれてていうのがとても快感だった。
このコミュニケーションの場は一切無くなった。

楽しげに話していても少し癇に障るワードが出てしまえばそこからは戦場の最前線である。家の中であろうと外であろうと。
スリッパやらビンタやら椅子やら包丁やら暴言やら飛べそうなものにはなにかと羽が付いてた。
今でも事細かに飛んできたものは覚えてる。

小学6年生くらいだろうか、この頃から起きているときはものの距離感がよくわからなくなり、とにかく畳が怖かった。一畳がとても大きく見えて、剥がれて飛んできそうな感じ。毎晩見る夢は白い空間の中に自分一人だけいて、ホークアイのような感じの視点から全てを見ている感覚。体自体はものすごくちっちゃくなっているんだけど手足を動かす感覚は身長2mあるかのような何とも言えない感覚。アリス症候群とでも言うのだろうか、あの頃の体験はもう2度と嫌だ。

自分にとって怖いのは怒られることではなく、話の腰を折られることが一番怖い。

——そんなことがどれくらい続いたのかはわからない。
けれどいつの間にか、好奇心を元に言葉を発することをやめていた。それより自分を守るために使い続けた。徹底的にボーダーラインを引き、壁を作り自分の発する言葉でイメージ通りの距離を作った気がしてた。ある程度は気が楽になれた、ある程度までは。楽の後には苦もあれば孤独もあった。

中学2年生くらいだろうか、この頃から先ほどの夢に加えて正夢を見るようになったと同時期くらいに霊視(?)空間に気配を感じたり、人のオーラとでも言うのだろうかその人自体の色や取り巻く靄みたいな物が人それぞれ強弱があるのを知った。
これが見えたことによる何かしらの利点は特になかったが、それを示す基準もなにもよくわからないし。
ちなみに今は見えない。夢は見る。
見るときの夢はたいてい3部構成である。3部目が正夢になるのだ。

話を戻すと楽と苦は1:2の比率でやってくる。望む望まないに限らず1:2は崩れなかった。苦を味わないために楽を取ると倍になって帰ってくる。無限ループ。もはや笑えない。
                                   
                                   
                                   

 でも、今は、25歳の俺は、この経験を失敗だと思わないし思えない。70億分の1の体験をさせていただいているだけだ。
70億人のそれぞれが作り出すコミュニティにおいて、自分の体験はそのコミュニティを形成するナニカの一部に過ぎないしそれを相対的な尺度で見る必要がないように思える。
人間としてみれば自分はマジョリティであっても一個体として自分を見れば圧倒的マイノリティでありそれはどこにいても必ず付いて回る。
全パターン違うし、自分の生き方在り方所作纏う言葉にしか響かない方もいる。もう一度書くが、これは70億分の1の体験にしか過ぎない、これにおいては全ての個体がマジョリティなのかもしれない。表裏一体。

 

つまり、自分自身を国に例えるなら、自分という国で持てる資質が生きていれば問題ないと思える。
幸い俺の国には水もあれば火もある。木もあれば土もあって、金もあれば欲もあってさらには愛もある。国士無双

 

何をしようと勝手だし自由だが、国の発展にはおそらく自分の欲に忠実じゃなくてはいけないんだろう。

「本当の自分はどうしたいのか」これに如何に忠実であるか。
でもこれは用意されている答えに気づけるかどうかというだけ、俺は答えは自分の中にしかないと信じている。
他人が用意してくれた一見答えのようなものも自分の答えフィルターに通して見るから答えなのだと思う。

もう一つ信じているものがあって…
叶えたいと願望が芽生えた時にはすでに実現させるためのパワーが内在しているということ、願望に花咲かせる水やり・肥料(基礎の反復練習)が必要なだけ。
                                   
                                   
                                   
                                    

 今、言葉に出来たり文字起こしができてノートに書き殴ってほぼ全文そのままでパソコン文字に紡いでいる。
自分にとって書いた文字と打った文字は同じ人の文章でも全く違うと思っている。だから自分が文章を打ち込むときは必ずノートに文字起こしをしてからと決まってる。
いきなり打ち込みだと全くと言っていいほど「ペン」が進まない。

あくまで自分が体験したことはおそらく自分が経験するべくしてしたものだから命が今ある限りその体験に苦もあれば楽もあったというだけのことであるって今なら思える。
楽という言葉の「木」の部分のほんの一部を拝借して楽と表現しているんだろう。
これは絶対千差万別あって然るべき。むしろ色んな人の人生に触れてそれを知りたい。
十人十色のそれがどんな色をしているのか知りたい。
まさに好奇心の塊。

だから自分にとっては性別年齢を問わず誰からでも学びたい。欲しい答えは自分で見つけ出す。そういう程で物事を見たとき、っぽっと出てきてくれる。案外近くにあったね。

「やっと自由だーー!
  少しずつ光に色が付くのがわかる」
                                     
                                            こんな感じの人が書くブログにお付き合いくださいませ。単純にプロフィールを書くより絶対的なリード文になると思ってこういうスタートにさせていただきました。

 

二番煎じであることは当たり前。

 

自分の歩幅でやって生きましょーーう。

 

ほらね。なんだかいい感じ♪

 

言葉に出せなくても誰かに説明できなくてもいいんだ。

 

あなたのそのなんだかいいかんじを一緒に共有できれば。

 

 


お疲れ様でした。